私の現実は本当に存在しているのか
こんにちは、粒です。
今日は、とりとめのないことを書きます。
現実感がなく、あまりにも頼りない、この日常を言葉に残しておかないと、いつか大切なことを見失ってしまうのではないかと不安に思うから。
私の現実は、それほど変わりなく毎日淡々と過ぎていきます。
楽しいこともうれしいことも幸せなこともあります。
オットは未だに無職ですが、娘は毎日元気に学校に通っているし、家族3人仲良しです。
今までは、オットの見ている毎日と、娘の見ている毎日と、自分の見ている毎日は同じようにそこに存在し、同じように流れて思い出になっているのだと思っていました。
というか、それは当たり前のことだと思っていて、それを疑うことなど全くなかった。それについて考えることすらなかった。
でも、今は違うように感じています。
同じ空間に一緒に存在しているはずなのに、見えている景色が全く違うんじゃないかと。
見えている世界が全く違うんじゃないかと。
私とオットのとりあえずの方向性は同じだということが分かっていたので、それ以上の議論をすることはなかったし、あえて深く話をしないままやってきましたが、それでも一度、あれ?と違和感を覚えたら、一緒に過ごしているはずの空間が一気にぱらぱらぱらっとめくれて反転していくような感覚が。
すると、私の現実世界は私だけのものになってしまいました。
孤独。
私が見るスマホの画面には、私がよりどころとする現実や、私が共感できる人や、私が目を背けてはいけないと思う世界が、毎日たくさん出てきますが、オットのスマホの画面には、それらは一切挙がってきません。
こちらから手に入れに行かない限り、向こうからは親切にやってきてくれません。
なので、あの時点では同じ方向を見ていたはずの私とオットの歩いている世界は、ところどころでは交わっているものの、今は違う情報によって成り立っている違う世界になっているようです。
そして、テレビのニュース情報を私に教えてくれる人の見ている世界には、私が考える心配や不安の要素は全く存在していません。
あれ?
私が考えている現実は、私の頭の中だけの出来事なのでしょうか。
50年以上生きてきて、いろいろなことがもちろんあって泣いたり落ち込んだり、山あり谷ありの毎日だけど、それでもこれから先も同じように生きていけるんだと思っていた。
私の娘も、同じように泣いたり落ち込んだりもしながら、幸せに大人になっていくのだと信じていた。
その根底が揺らぐようなことがあるなんて思いもしなかった。
それでも私は、これだけはブレることなく握りしめてもっていくと誓う。
自分たちがそうして守られて大人になることができたように、私たち大人は子供たちの未来を守る責任があると思う。
だから、私は子供を守るために、今ここ一瞬一瞬に、最善の選択をしていきたい。
周りにどう思われようとも。
孤独でも。